私の戦場
午前7時15分。毎度のことだが通勤ラッシュの混雑はたまらない。
オフィスまでの約30分を快適に過ごせるかは座れるかどうかで決まる。
かつて6時付近の時差出勤に挑戦してはみたが長くは続かず、気が付けば午前7時15分発の列車を待っている。
「苦しいから逃げるのではない。逃げるから苦しくなるのだ。」
心理学者ウィリアム・ジェームズの言葉通り、朝が弱いダメ人間の私の戦場はこの時間なのだ。
ラッシュ時を避けて、早起きなんぞに逃げるなど言語道断なのである。
列車内のターゲット
棋士会で話題の藤井 聡太さんは、30手先以上読んで将棋を指すらしい。
昨日何を食べたかも忘れる私にはとても無理だ。
せめて2手先、3手先を読むことで、列車の席を確保する勝率を上げれないものだろうか。
将棋の上達法は、棋譜通りに駒を動かし、強い人の指し手を学ぶことだ。
もしそうなら、乗降客を将棋の駒に見立て、通過駅ごとに席が空く定跡を覚えることができれば、通勤ラッシュ杯のタイトル戦を制することができるのではないか。
最寄りの乗車駅から降車駅まで9駅。
1駅を野球の1イニングとすると、1駅から9駅まで完封する剛腕ピッチャーは、絶対に避けなればならない乗客だ。
しかしながら、10両編成の列車で、乗る場所も決まっていない乗客の顔を覚えるのは難しい。
北川 景子さんのような美人であれば一目でバッチリ記憶できそうだが、そもそも初対面の人の顔を覚えることは苦手だ。
「もっとわかりやすいターゲットはないものか」
通勤時に高い確率で遭遇し、且つ、見分けやすい利用者がいるはずだ。
このベン図の共通部分に該当するのが制服を着ている学生だろう。
制服から学校をたどれば、降車駅がわかる上、顔を覚えるより遥かに簡単ではないか。
何度か挑戦してみたが、混雑する車内では、ターゲットの前に移動することが難しい上、恐らく他の座席ハイエナたちも、私と同じ考えなので、接近できても標的の前を離れることはない。
また、見知った学生の前で座席待ちをしてしまうと、ストーカー容疑をかけられる恐れもある。
中年のおっさんが、離れた場所から自分の近くにやって来て、まだか、まだかと待ちわびる様子を想像するだけで気持ち悪い。
そんなことを、2、3度続けたら犯罪者と間違われてもしかたがないだろう。
観察から分かること
「僕は天才ではない。なぜなら自分がどうヒットを打てるかを説明ができるから。」
マリナーズで活躍したイチローさんの言葉だ。考える努力の大切さを教えてくれている。
刻々と変化する将棋の盤面を支配するように、流動的な乗客の動きを俯瞰しながら、臨機応変に対応して空席を獲得すべきではないだろうか。
どれだけ座りたくても、予めターゲットを設定するような安直なやり方は、立派な大人としてエレガントではない。
こんなことでは、名門イーデン校寮長のヘンリー・ヘンダーソンからステラをもらえないだろう。
イチローさんが打席に入る際、ピッチャーに向かってバットを水平に突き出しながら集中力を高めたように、列車に乗り込んだ際、ゆっくり息を吐きながら、周囲の状況を詳しく観察してみよう。
眠る、スマホ操作、読書、音楽を聴いている等、車内の行動は様々だ。
この中から、なるべく早いタイミングで席を立つ人を見つけなければならない。
座席前の立ち位置移動は、左右1席ずつをマイルールとする。
会社への通勤時「私は乗り越しても大丈夫ですよ!」と答えるゆとり人間は日本にはいない。
仮にそんな悠長な事を言ってる人を見かけたら、リストラされたことを隠して不思議な国に勤務するリーマンなのでどうか見逃してあげてほしい。
つまり、降車駅への意識が薄い人の前に立ち続けても座れる可能性は低いというわけだ。
では「誰がまもなく降りるのか?」
私の2か月に及ぶ座席占有者観察統計結果から、出発した列車が次の駅に近づく瞬間が最も重要だということに気づいた。
つまり、寝ている人なら目を開けて窓側を見たか、スマホ操作や読書なら画面や本から目線を外したか等、次の駅が近づいた時に視線を変えた人をロックオンすればよい。
「私は、社内の時間を有意義に過ごしたい。」そんなわがままな人も心配ご無用。
好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スマホでニュースをチェックしていればいい。
ただ、社内アナウンスが流れた瞬間だけ、全集中の呼吸を使って、自分の前3席に座る人の視線変化をとらえるだけだ。
W.クレメント・ストーン曰く、あらゆる偉業の出発点は、目的を明確にすることなのだ。
スライムとカービィ
乗車から4駅を通過。
「先発から中継ぎ登板までの6回までには座りたいな…」と思いながら目の前の会社員を観察する。
ヘッドフォン付けながらスマホを操作する今どきの若者。
スクウェア・エニックスの名作ゲームドラクエで例えるなら、スライムぐらいの頻度で遭遇するタイプの乗客だ。
5駅目のアナウンスが流れたとき、前に座るスライムを見ると、ヘッドフォンを耳から外した。
「乗り過ごさないようアナウンスを聞く体制に入ったのか?」
直ぐに動けるようそれとなく準備していたが、彼は相変わらずスマホ画面に没頭していて立つ気配がない。
どうやら音楽を止めてスマホに集中したかっただけのようだ。
DJのように首にかけたヘッドフォン姿に少し腹が立ちつつ次の機会を待つ。
スライムの左側に座る年配女性は、眠りが深いのか最初の駅から一度も動いていない。ただの屍のようだ。
右側は、朝の通勤に場違いな明るいピンクの装いで、今どき珍しく文庫本を読んでいる。
6駅目到着前のアナウンスが流れたとき局面が急変する。
DJ-スライムが、スマホから視線を外し車窓から景色を確認。
右側に座るピンクのカービィ (任天堂ゲームのキャラクター) も本を鞄に片付けたのだ。
「今ならどちらの席も狙える」
今日の座席取り杯も中盤に差しかかり少し疲れてきた。仕事前に疲労を回復するには宿屋が必要なのだ。
「これまでの状況をもう一度整理してよく考えろ!」自分を震え立たせながらDJ-スライムの行動を思い出す。
彼は、2駅前からヘッドフォンを外し、1駅前では車窓から外の景色をキョロキョロ確認するほど慎重な男だ。
「ここで間違いない!!」。
本を片付けたカービィの挑発なぞに乗らず、どっしり構えていればいいのだ。動かざること山の如しである。
列車が駅に到着。DJ-スライムが降りやすいよう半歩下がってその時を待つ。
予想通りカービィは立ち上がって席を離れる。幸い私の横で立っていた人も降車したため、一歩ずれれば座ることができた。
しかし、DJ-スライムの進路を妨害して、我先に席を取りに行くなど、紳士の行動として最悪だ。
「さあ、私の前は十分に空いている。気兼ねなく降りたまえ!」そんなことを考えている間に、カービィの席は忍者のような動きで席をとりにきたおばさんに奪われた。
しかし、DJ-スライムは微動だにしない。前に座る彼に猛烈に腹が立ったが時すでに遅し。
ドラクエ最弱のスライムと思っていた彼は、中盤を越えてもまだまだ投げられる優秀なドラ1ピッチャーだったのだ。
7駅目のアナウンスが流れる。
「後3駅か…」と前を向いていると、何とドラ1-スライムは、盗塁を気にするピッチャーのように、また、顔を上げて窓から景色を確認している。
50メートル5.7秒の俊足を持つ周東 佑京選手が塁に出ているような警戒ぶりである。
5駅目でヘッドフォンを外し、社内アナウンスを逃さず聞き始める。
更に、降車駅1つ前の6駅目から景色を目視確認、7駅目で再度チェックする慎重すぎる奥手男子なのか。
「もう少しで到着するが、後2駅だけでも座れるのはありがたい。次こそは頼むぞ!」と半歩下がって待っていたが、またしても立たない。
ぶん殴りたい気持ちを抑えるだけで一杯一杯だ。
もしかして、車窓から景色を確認するには彼の癖か何かで、その行動に意味はないのかもしれない。
「今日は本当に疲れた。後で甘い缶コーヒーでも飲もう。」とぼーっとしていると、8駅目で突然奥手男子が席を立つ。
ジェントルマンスタイルで半歩下がっていないので、膝が少しあたって慌てて動く私。
「おいおい。今日は9回まで完封してくれよ。」