黒いものを黒と言える日
午前7時15分、東京駅地下1階の通路を足早に歩きながら、丸の内地下中央口を目指す。
プラットフォームの数が日本一多いこのターミナル駅はとにかく広い。「東京ドーム3.6個分!」と言っても誰も想像できないだろう。
平日は、満員列車でもみくちゃにされる荒行を笑顔で楽しめるリーマンの私だが、今日は土曜日。黒いものを黒と自信を持って言える日なのだ。
疲れた体を癒す大切な休日に、眠い目を擦りながら顔を洗い、予定より一本遅れた列車に飛び乗る。
待ち合わせ場所として有名な銀の鈴広場で方向感覚を失いながら、絶品カレーパンZopf (ツオップ) を方面に向かってひたすら進むと見えてくるのが、「ヒトツブカンロ グランスタ東京店」である。
30デシベルのささやき
腕時計は7時20分付近。お店が開く午前8時にはまだ40分以上ある。
「今日の苦労が報われる」と完全勝利を確信しながら、軽井沢の老舗パン屋ブランジェ浅野屋を優雅に通り過ぎた先で信じられない光景が、、、「店舗の壁伝いに行列ができているではないか!」。
ここは、ミュシュラン1つ星を獲得した中華そば 銀座 八五 (はちごう) ではないし、初売りのアップルストアーとも違う。まだ、多くのテナントが開店前で、コツコツと足音が響く土曜日の駅構内のはずだ。
「人はなぜ山に登るのか」。
30代半ばでエベレスト登頂に挑戦したイギリスの登山家、ジョージ・マロリーは「そこに、山があるからだ」と答えた。当たり前である。きっと心に火を灯す何かがあったのだろう。
私は人込みも行列も苦手だ。少なくとも休日の行列に並ぶ苦行に挑む勇気を持ち合わせていない。
階段付近まで並んでいる猛者たちに尊敬の念を抱きながら、とりあえず最後尾で息を整える。炎の呼吸で心を燃やさなければ目の前の山を越えられそうにないからだ。
人は欲しいものへの熱量が大きくなると、脳から分泌されるやる気ホルモン「ドーパミン」効果によって、苦痛を和らげることができるらしい。
藁にもすがる思いで、外はパリッ、中しっとりの新食感グミ「グミッチェル」を絶対買うのだ。心の中で唱えてみる。
おっさんの咀嚼音では、ゾクゾクする寒気を与えられても、残念ながら心地よさを伝えることはできないだろう。それでも、流行のASMRに挑戦したいのだ。
7時50分を過ぎた頃、カンロのスタッフが注意書きらしき紙を列の前から後ろへと回し始めた。
小学生のプリント配りのように、順に手渡される光景に妙な懐かしさを覚える。思考が停止するほど、疲れ切っていたのだろう。
「何が書いてあるのか?」大した内容ではなさそうだが、紙が近づいてくると気になる。
私の前に並んでいる20代らしき若いカップルを見ながら、男性なら「どうぞ。」、女性なら「ハイ!」だろうと、つまらないイメトレをしながらその時を待つ。
「紙が回ってこない!」世間一般かどうかは定かではないが、1組15秒から30秒程度で要点を確認し、次の人に渡すはずだ。
わざわざ時計を見ていないので正確な時間はわからないが、1分18秒は過ぎている。回覧ガイドラインを完全に逸脱する行為ではないか。
この注意書きは、ヒエログリフか何かで書かれているのかと、後ろから覗いてみると、「ゆとり」か「さとり」か見分けがつかない今どき世代の若者の男性側が、紙を手で持ったまま、携帯で何かを調べている。
恐らく彼は、「私の短所は、集中しすぎると周りが見えなくなることです!」と就活面接の弱みを伝えてきたことだろう。しかし、ここは面接会場ではい。薄暗い階段の踊り場なのだ。
「なんなのかしら!」後ろのマダムも平均閲覧計測係の一員なのか、明らかに怒っていらしゃる。
有ろう事か、ひとつ前の私に聞こえるかどうかの音量、約30デシベルほどで、文句をささやいている。船場吉兆、「ささやきマダム」戦法だ。
「すみません。紙を回していただけないでしょうか」私から止むを得ず依頼したところ、特段悪びれる様子もなく、かつてNBAで活躍したマジック・ジョンソンのようなノールックパスで紙を渡してきたではないか。
「どうぞ。」も「ハイ!」のなく、20デシベル以下の無音で渡すなど、社会通念上非常識である。
4から5秒かけて息を吸い、10秒程度かけて吐くアンガーマネジメントを極めた私でなければ、「炎の呼吸奥義 玖ノ型・煉獄」でこの二人の鬼を完全に切り落していたことだろう。
カンロ注意書き第14条
品薄のグミッチェルは、1人2点までしか買えない。
1つの箱には、グレープ、オレンジ、ラフランス、ソーダ、グレープフルーツ、ピーチ、6種類のフレーバーが入っているので、それぞれ2ずつ計12個。
家族3人暮らしの我が家では、均等に配布できないので早い者勝ちだ。1人4個の割り当てでは、2つのフレーバーが試せないが、そんなことはどうでも良い。ただ、音と食感を楽しめればよいのだ。
気づけば8時を過ぎ、ようやく列が動き始めた。当然と言えば当然だが、前のカップルは4箱。私と後ろのささやきマダムは2箱。
苦痛に耐える時間は同じなので、1グループで買える数が公平になるよう「カンロ注意書き第14条」で定めるべきだ。
いよいよ私の順番である。いろいろ大変だったが、やっと解放される。今日は心のオアシス土曜日なのだ。巷で話題のグミッチェルを持って帰れば、家族は羨望のまなざしで私を家へ向かい入れることだろう。
麒麟の川島 明さんのような少し渋めの声で「2つ下さい。」と伝えたところ、定員さんから、時間が書かれた整理券を配られる。
「どれだけ紙を渡すのが好きな会社なんだ。」と急ぎ内容を確認すると、どうやら、9時から9時20分内に店舗に戻ってこないと、ドイツ発祥のパン「プレッチェル」を模したグミキャンディを買えないようだ。
まさに青天の霹靂。この後に用事があったらどうなっていたことか。
「まだ45分ほど待たなければならない」。ここは、1日の平均乗降客数が50万人を超える東京駅構内だ。言うまでもなく、時間をつぶすアトラクションなどない。
来た道をトボトボ戻る途中に揚げたてザクザクのZophカレーパンを買って、迷うことなく銀の鈴広場の木製ベンチに腰を下ろす。
後40分。ペラペラの整理券が何とも腹立たしい。「ここに住んでるわけじゃないんだが…」